徐興慶
SHYU, Shing-ching
緣起
1985年負笈日本九州大學留學,是筆者走入中日文化交流史研究的一個重要起點。當時承蒙長年鑽研近世日本對外關係史的中村質教授指導,開始接觸德川時代的第一手史料,其中不少為以古日文「候文」書寫的文書。從辨讀文字、理解語意,到追索文書背後的人物與時代,逐漸體會到:歷史研究最動人的地方,往往就在一紙舊文書、一封往返信函,乃至一段久被遺忘的記載之中。
隨著研究逐步深入,筆者開始注意到,德川日本雖長期處於所謂「鎖國」體制之下,卻從未真正與外部世界隔絕。二百餘年間,進入長崎港的唐船不僅帶來中國商品,也源源不絕地輸入歷代典籍、文物與知識;尤其明清鼎革之際,隱元、獨立、朱舜水、東皐心越等人物先後東渡,更將思想、宗教、學問與文化帶入日本。他們所攜帶的不只是書籍與器物,更包含一個時代的記憶與思想。人、書籍與知識跨越海洋,在異文化社會中重新被理解、接受乃至轉化,由此形成的歷史現象,遂成為筆者四十餘年來持續探索的課題。
研究愈久,愈深感真實的第一手文獻與精確的解讀,是接近歷史不可或缺的基礎。因此,蒐集、整理、考證與解讀史料,始終是筆者治學最基本的方法。然而,史料本身並不是研究的終點。從一個人物、一件史料出發,往往會牽引出另一個人物、另一批文獻,最後連結成更廣大的思想與文化網絡。也正因如此,筆者逐漸認識到,「文化交流」不能只理解為兩國之間單向的傳播,也不能侷限於某一時代、某一人物或某一事件。典籍、思想、宗教、文學、藝術、制度與科技,都可能隨著人的移動而跨越疆界,並在新的社會環境中經歷選擇、轉譯、融合與再創造。
從長時段觀察,中國文化傳入日本的歷史,至少可以上溯至古代遣隋使、遣唐使的往來;平安時代以後,以貴族知識階層為中心形成新的文化接受;中世紀五山禪僧成為中日知識交流的重要媒介;近世以後,長崎唐船、渡日文人及商業活動,又開啟另一種文化流動的形式。十九世紀西洋文明進入東亞之後,中國、日本與西方之間更形成多重交錯的知識網絡。「東洋」與「西洋」、「傳統」與「近代」相互碰撞,也使原來以中日兩國為中心的文化交流研究,必須放到更廣闊的東亞乃至世界史脈絡中重新理解。
四十餘年來,筆者曾以隱元、獨立禪師、朱舜水、東皐心越、魏源、王韜、何如璋、楊守敬、黃遵憲、康有為、孫文、梁啟超、林獻堂等中日台人物,以及德川光圀、安東省菴、橫井小楠、佐久間象山、吉田松陰、福澤諭吉等日本思想家為研究對象,從人物交流、思想傳播、自他認識與近代化等不同面向,考察德川至明治以降東亞知識與文化的流動。這些研究看似分散於不同時代與人物,其實始終圍繞著一個共同問題:一種思想或文化跨越國境之後,如何被另一個社會理解、接受、轉化,最後成為自身文化的一部分?
其中,朱舜水研究成為筆者學術生涯中持續最久,也最重要的一條主線。最初從朱舜水個人及相關史料入手,逐步擴展至其與德川光圀、水戶德川家以及日本近世儒學發展的關係。隨著史料的不斷發掘與整理,研究的重心也從一位明遺民在日本的活動,延伸至水戶德川家的學問傳統、《大日本史》的編纂、彰考館的學術活動,以及朱舜水思想在水戶藩內部如何被繼承、轉化與重新詮釋。長期參與水戶德川家舊藏儒學關係史料的調查,更使筆者深切體會到,人物研究若能與新史料的發掘相互結合,往往可以重新開啟既有研究未曾注意的歷史面向。
近年來,筆者的研究進一步由朱舜水與前期水戶學,延伸至立原翠軒、藤田幽谷、青山延于、會澤正志齋等中後期水戶學者,並以《大日本史》《皇朝史略》《弘道館記》等史籍與思想文獻為中心,重新思考大義名分、神儒關係、文武並重、海防思想、教育理念、蘭學受容及國家意識形成等問題。關心的重點,也逐漸從「某一思想如何傳入日本」,轉向「外來思想進入日本之後,如何經過歷史記憶、政治制度、教育與在地思想的重新建構,而形成新的知識傳統」。
回顧自己的研究歷程,大致可以說,是從「人物研究」出發,經由「史料發掘」,走向「水戶德川家的學問」,再擴展至「東亞思想交流史」,而近年則嘗試從「東亞文明史」的視野,重新思考近世以降中國、日本與臺灣之間知識、思想與文化的流動。這並不是研究領域不斷擴張的結果,而是在長年閱讀史料的過程中逐漸體會到:個人的生命與思想從來不是孤立存在的,一部典籍、一種學問、一個思想傳統,也從來不會停留在固定的國界之內。唯有將人物放回時代,將史料放回思想脈絡,再將國與國之間的交流放回東亞文明的歷史長河之中,或許才能更接近歷史原來的面貌。
相關研究成果,詳見本網站「專書一覽」。一路走來,筆者始終相信,學問不是為了證明已經知道多少,而是在不斷閱讀、發掘與思考之中,看見更多尚未理解的問題。1985年初到九州大學時,從一紙紙陌生而難解的候文開始;四十餘年後回望,當年那些古老文書所開啟的道路,竟一路引領筆者從中日文化交流走向水戶學,再從水戶學走向東亞思想與文明史。
如今再回到書房,面對多年累積的史料與著作,愈發感受到:四十餘年的研究並非抵達了一個終點,而只是使自己逐漸看見更遼闊的學問風景。東亞千餘年的文化交流,人物繁多,典籍浩瀚,思想與制度彼此交錯,絕非一人之力所能窮盡。未來仍期待與海內外學界同好攜手,在史料與思想之間、在臺灣與世界之間,持續推動國際學術交流。若能在前人所開闢的道路上,再留下些許可以供後來者繼續前行的足跡,或許就是筆者四十餘年治學生涯最值得珍惜的意義。
研究の歩み――縁起
1985年、日本への留学を志して九州大学に学んだことは、私が日中文化交流史研究の道へと歩み出す大きな契機となった。当時、日本近世対外関係史の研究に長年取り組んでこられた中村質先生のご指導を受け、徳川時代の一次史料に接するようになった。その多くは古文書特有の候文で記され、容易に読み解けるものではなかった。文字を判読し、その意味を理解し、さらに文書の背後にある人物と時代をたどっていく。その過程で、歴史研究の醍醐味は、一通の古文書、一通の往復書簡、さらには長く忘れられてきたわずかな記録のなかにこそ潜んでいることを、次第に実感するようになった。
研究を進めるにつれ、徳川日本は長期にわたり、いわゆる「鎖国」体制のもとにあったとはいえ、決して外部世界から完全に閉ざされていたわけではないことに気づかされた。二百数十年にわたり長崎港に来航した唐船は、中国の商品だけでなく、歴代の典籍、文物、さまざまな知識を絶えず日本にもたらした。とりわけ明清交替期には、隠元、独立、朱舜水、東皐心越らが相次いで渡日し、思想、宗教、学問、文化を日本社会へ伝えた。彼らが海を越えて運んだものは、書物や文物だけではない。そこには、一つの時代の記憶と思想そのものが託されていたのである。人、書物、知識が海を越え、異なる文化のなかで新たに理解され、受容され、ときに変容していく。その歴史的営みこそが、以来四十余年にわたって私が追究してきた課題となった。
研究を重ねれば重ねるほど、確かな一次史料とその精確な読解こそが、歴史に近づくための不可欠な基礎であるとの思いを深くしてきた。そのため、史料の収集、整理、考証、解読は、常に私の研究の基本的方法であり続けている。しかし、史料そのものが研究の終着点ではない。一人の人物、一点の史料から出発しても、そこから別の人物、別の史料へと導かれ、やがてより大きな思想と文化のネットワークへとつながっていく。こうした経験を通して、「文化交流」は単なる二国間の一方向的な伝播として捉えるべきものではなく、特定の時代、人物、事件だけに限定できるものでもないと考えるようになった。典籍、思想、宗教、文学、芸術、制度、科学技術などは、人の移動とともに境界を越え、新たな社会環境のなかで選択され、翻訳・翻案され、融合し、再創造されていくのである。
長い時間軸から見れば、中国文化が日本へ伝わった歴史は、少なくとも古代の遣隋使・遣唐使の往来にまで遡ることができる。平安時代以降には貴族知識人層を中心とする新たな文化受容が進み、中世には五山の禅僧が日中間の知識交流において重要な役割を担った。近世に入ると、長崎唐船、渡日知識人、商業活動などを通して、さらに新しい文化移動の形が生まれた。そして十九世紀、西洋文明が東アジアへ本格的に流入すると、中国、日本、西洋の間に多層的で複雑な知識のネットワークが形成される。「東洋」と「西洋」、「伝統」と「近代」が相互に交錯するなかで、従来の日中二国間を中心とした文化交流研究も、より広い東アジア史、さらには世界史的な文脈から捉え直す必要があると考えるに至った。
四十余年にわたり、私は隠元、独立禅師、朱舜水、東皐心越、魏源、王韜、何如璋、楊守敬、黄遵憲、康有為、孫文、梁啓超、林献堂ら中国・日本・台湾に関わる人物、また徳川光圀、安東省菴、横井小楠、佐久間象山、吉田松陰、福沢諭吉ら日本の思想家を研究対象としてきた。人物交流、思想伝播、自己認識と他者認識、近代化などの視点から、徳川期から明治以降に至る東アジアにおける知と文化の移動を考察してきたのである。一見すれば、これらの研究は異なる時代と人物に分散しているように見える。しかし、その根底には一貫して一つの問いがある。すなわち、ある思想や文化が国境を越えたとき、それが異なる社会においてどのように理解され、受容され、変容し、やがてその社会自身の文化の一部となっていくのか、という問いである。
なかでも、朱舜水研究は、私の研究生活において最も長く継続してきた重要な柱となった。当初は朱舜水個人とその関係史料の研究から出発したが、やがて徳川光圀、水戸徳川家、さらには日本近世儒学の展開との関係へと研究対象を広げていった。新たな史料の発掘と整理を重ねるにつれ、一人の明朝遺民の日本における活動を考察することから、水戸徳川家の学問的伝統、『大日本史』の編纂、彰考館の学術活動、さらには朱舜水の思想が水戸藩のなかでどのように継承され、変容し、再解釈されていったのかという問題へと関心が広がった。長年にわたり水戸徳川家旧蔵の儒学関係史料の調査に携わった経験からも、人物研究と新史料の発掘とを結びつけることによって、従来の研究では見落とされてきた歴史の新たな側面を明らかにし得ることを実感している。
近年はさらに、朱舜水と前期水戸学から、立原翠軒、藤田幽谷、青山延于、会沢正志斎ら中・後期水戸学の思想家へと研究を展開し、『大日本史』『皇朝史略』『弘道館記』などの史書・思想文献を中心として、大義名分、神儒関係、文武並重、海防思想、教育理念、蘭学受容、国家意識の形成といった諸問題を改めて考察している。研究上の関心も、「ある思想がいかに日本へ伝わったか」という問題から、「外来思想が日本へ伝来した後、歴史的記憶、政治制度、教育、在地の思想との関係を通して、いかに再構築され、新たな知的伝統を形成したのか」という問題へと移りつつある。
これまでの研究の歩みを振り返れば、それは「人物研究」から始まり、「史料発掘」を経て、「水戸徳川家の学問」へと進み、さらに「東アジア思想交流史」へと広がり、近年では「東アジア文明史」という視野から、近世以降の中国・日本・台湾における知識、思想、文化の移動を捉え直そうとする歩みであったと言える。それは単に研究領域を拡大してきたということではない。長年にわたり史料を読み続けるなかで、人間の生と思想は決して孤立して存在するものではなく、一冊の書物、一つの学問、一つの思想的伝統もまた、固定された国境の内側だけにとどまるものではないことを学んできたからである。人物をその時代のなかに置き、史料を思想史的文脈のなかに位置づけ、さらに国家間の交流を東アジア文明の長い歴史の流れのなかで捉えることによって、初めて歴史の本来の姿に少しでも近づくことができるのではないかと考えている。
これまでの研究成果については、本ウェブサイトの「著書一覧」をご覧いただきたい。研究の道を歩んできて、私が変わらず信じていることがある。学問とは、自分がすでにどれほど多くを知っているかを示すためのものではなく、読み、発掘し、考え続けることによって、なお理解できていない多くの問いに出会う営みだということである。1985年、九州大学に留学した私は、一枚一枚の見慣れぬ、容易には読み解けない候文の史料と向き合うところから研究を始めた。それから四十余年を経た今、振り返ってみれば、あの古い文書が開いてくれた道は、私を日中文化交流史から水戸学へ、そして水戸学から東アジア思想史・文明史へと導いてくれたのである。
今、再び書斎に戻り、長年にわたって蓄積してきた史料と著作を前にすると、四十余年の研究は決して一つの終着点に到達したのではなく、むしろ、これまで以上に広大な学問の風景を見せてくれるようになったと感じている。千年以上に及ぶ東アジアの文化交流は、多くの人々と膨大な典籍、複雑に交錯する思想と制度から成り立っており、到底一人の力で究め尽くせるものではない。これからも国内外の研究者と手を携え、史料と思想の間を往還し、台湾と世界をつなぎながら、国際的な学術交流を続けていきたい。先人が切り拓いた道の先に、後に続く人々がさらに歩みを進めるための、ささやかな足跡を残すことができるならば、それこそが私の四十余年にわたる研究生活にとって、何より大切な意味なのではないかと思っている。
明、清時代東渡日本的隱元(1592-1673)
獨立禪師(1596-1672)
朱舜水(1600-1682)
東皐心越(1639-1695)
學術交流的背景與宗旨
自1985年負笈日本九州大學以來,筆者從近世日本對外關係史與中日文化交流史出發,迄今已走過四十餘年的研究歲月。長年來愈加深切體會到,文化的形成與傳播,從來不受現代國界所限制,也無法僅從單一時代、人物、事件或國家的立場加以理解。人員往來、典籍流傳、思想傳播、宗教、制度乃至知識與技術的移動,往往跨越地域與時代,並在不同文化之間經歷接受、轉譯、融合與再創造。因此,本研究室長期以「東亞」作為思考人文與社會現象的重要研究視野。
「東亞」固然具有地域概念,但其內涵並非固定不變。由於歷史經驗、政治環境與各國立場不同,對「東亞」始終存在多元而複雜的理解。本研究室所思考的「東亞」,並非以「中國中心論」(Sinocentric)為出發點,也不以任何單一國家或特定時期作為衡量其他文化的中心,而是希望透過跨國界、跨時代與跨領域的文化交流研究,探討中國、日本、韓國、臺灣、越南等地彼此之間的異同,以及人、書籍、思想與知識如何跨越疆界,相互影響並形成新的文化形態。從這個意義而言,「東亞」與其說是一個固定的地理範圍,不如說是一個可以觀察文明交流、知識移動與文化轉譯的開放性研究空間。
這樣的思考,也逐漸由個人的學術研究走向跨校、跨國與跨領域的共同研究。多年來,筆者曾參與及執行臺灣大學人文社會高等研究院「東亞經典與文化」、「東亞儒學」、「日本與韓國研究平台」等研究計畫;並參與日本關西大學東西學術研究所亞洲文化交流中心「東亞文化資訊之傳遞與受容」、「東亞文化資料庫之建構及研究據點之成立」等跨國整合型計畫,以及國際日本文化研究中心的訪問研究與共同研究。另與臺灣大學文學院、神戶大學、韓國海洋大學等學術機構合作,從經典、思想、港市、海洋、知識傳播與文化受容等不同角度,逐步建立臺灣、日本、韓國、中國、香港等地研究者之間的學術交流網絡。這些經驗使筆者更加確信,東亞研究不能只是個別學者的單獨工作,而需要不同學科、不同世代與不同國家的研究者共同參與。
2013年,是這一學術交流理念進一步制度化的重要階段。臺灣大學文學院於同年9月開設「日本研究中心 」,11月成立「日本研究中心」,筆者擔任首任主任,致力於突破傳統日本研究以單一學科為主的框架,推動文學、歷史、思想、語言、法律、政治、經濟、社會及國際關係等人文與社會科學之間的對話。2014年起舉辦「全國研究生研習營」,至2026年已邁入第13屆,累計邀請國內外六十餘位不同領域的學者授課,參與博碩士研究生超過八百人。對筆者而言,這些數字的意義不僅在於活動規模,而在於能讓不同世代的研究者在同一平台相遇,使日本研究由個別學科走向跨領域,並由臺灣出發與國際學界持續對話。
2019年接任中國文化大學校長之後,筆者進一步成立「日本研究中心 」及「東亞人文社會科學研究院 」,希望將多年累積的日本研究與東亞研究經驗轉化為更具制度性的學術平台。同年與中國、日本、韓國、越南十二所大學簽訂學術研究合作協議,邀集世界各地從事東亞研究的學者參與國際學術論壇;並透過全國大學生暨研究生研習營、國際論壇,以及自2021年起舉辦的「東亞學的跨域與共生」全國研究生研習營,持續培養年輕研究人才。2022年8月與日本渥美國際交流財團共同舉辦第六屆亞洲未來會議「創造亞洲・迎向未來——大家的問題,大家解決」,更進一步將學術交流由研究者之間的對話,擴展到亞洲共同課題與未來社會的思考。
與此同時,長年參與國際日本研究與東亞學術交流的經驗,也促使筆者重新思考「日本研究」與「東亞研究」之間的關係。日本研究若只以日本為封閉的研究對象,往往難以充分理解其歷史與思想形成的複雜性;同樣地,東亞研究若只是中國、日本、韓國等各國研究的並列,也不足以呈現區域內部長期存在的人員移動、知識傳播與思想交涉。因此,近年來筆者更加重視「跨國界的文化傳釋」與「東亞文明史」的視野,嘗試從朱舜水、水戶德川家的學問與水戶學研究出發,觀察思想如何跨越國境,又如何在另一個社會中被重新理解、轉化並制度化。研究的關注,也由早年的「文化交流」逐步走向「知識移動」、「思想轉譯」與「文明互動」。
回顧1985年至2026年四十餘年的研究與學術交流歷程,從最初個人的史料閱讀與人物研究,到跨國共同研究,再到日本研究中心、東亞人文社會科學研究院及國際學術網絡的建構,筆者愈來愈深刻體會到:學術交流真正的意義,不只是舉辦多少場國際會議,或簽訂多少項合作協議,而在於能否透過長期而持續的對話,使不同國家、不同學科、不同世代的研究者彼此理解,並共同提出新的問題。
尤其進入人工智慧、全球化與多語言、多文化並存的時代,東亞研究所面對的課題已不再只是「如何理解彼此」,更是「如何共同創造新的知識」。未來,本研究室仍將以臺灣為立足點,以日本研究為重要基礎,以東亞為視野,進一步連結世界;並在史料研究與跨領域對話、傳統人文學與新知識方法之間尋求新的可能。透過國際共同研究、青年人才培育與跨世代學術傳承,期待從過去四十年的「交流」與「傳播」,進一步走向「對話」、「共生」與「共創」。
四十年是一個回望的時間,也是一個重新出發的起點。學問無國界,文化亦從來不是孤立形成。唯有在差異中相互理解,在交流中重新認識自己,並將個人的研究轉化為下一世代可以繼續前行的平台,學術交流才能真正具有長久的意義。這也是筆者從事東亞研究四十餘年以來始終未曾改變的信念,亦是今後希望繼續努力的方向。
学術交流の背景と理念――四十年の歩みを振り返って
1985年に日本へ留学し、九州大学で学んで以来、私は日本近世対外関係史と日中文化交流史を出発点として、四十余年にわたり研究を続けてきた。その歩みのなかで次第に強く感じるようになったのは、文化の形成と伝播は現代の国境によって区切られるものではなく、また特定の時代、人物、事件、あるいは一国の立場だけから理解できるものでもないということである。人の往来、典籍の流通、思想の伝播、宗教、制度、さらには知識や技術の移動は、地域と時代を越え、異なる文化の間で受容され、翻訳・翻案され、融合し、再創造されてきた。こうした認識から、本研究室では長年にわたり「東アジア」を、人文・社会現象を考察するための重要な研究視座としてきた。
「東アジア」という言葉は、いうまでもなく地理的な概念を含んでいる。しかし、その意味は決して固定されたものではない。歴史的経験、政治的環境、各国の立場の相違によって、「東アジア」をめぐる理解には常に多様で複雑な解釈が存在してきた。本研究室が考える「東アジア」は、「中国中心論」(Sinocentric)を出発点とするものでも、特定の国家や時代を基準として他の文化を位置づけようとするものでもない。むしろ、国境、時代、学問領域を越えた文化交流の研究を通して、中国、日本、韓国、台湾、ベトナムなどの間に存在する共通性と相違性を考察し、人、書物、思想、知識がいかに境界を越え、相互に影響を与えながら新たな文化を形成してきたのかを明らかにしようとするものである。その意味で「東アジア」とは、固定された地理的範囲というより、文明交流、知識移動、文化翻訳を考察するための開かれた研究空間であると考えている。
こうした問題意識は、次第に個人の研究から、大学・国家・学問分野を越えた共同研究へと発展していった。これまで台湾大学人文社会高等研究院の「東アジア古典と文化」「東アジア儒学」「日本・韓国研究プラットフォーム」などの研究プロジェクトに参加・従事したほか、関西大学東西学術研究所アジア文化交流研究センターの「東アジア文化情報の伝達と受容」「東アジア文化データベースの構築と研究拠点の形成」などの国際共同研究、さらに国際日本文化研究センターにおける外国人研究員としての研究および共同研究にも携わってきた。また、台湾大学文学院、神戸大学、韓国海洋大学などの研究機関とも連携し、古典、思想、港市、海洋、知識伝播、文化受容といった多様な視点から、台湾、日本、韓国、中国、香港などの研究者を結ぶ学術交流ネットワークの形成に努めてきた。こうした経験を通して、東アジア研究は個々の研究者だけで完結するものではなく、異なる専門領域、世代、国や地域の研究者がともに参加することによって、初めて新たな可能性が開かれるとの確信を深めてきた。
2013年は、こうした学術交流の理念が、さらに制度的な形へと発展した重要な節目であった。同年9月、台湾大学文学院に「日本研究プログラム」が開設され、11月には「日本研究センター」が設立された。私は初代センター長として、従来の日本研究に見られた個別学問分野の枠を越え、文学、歴史、思想、言語、法律、政治、経済、社会、国際関係など、人文科学と社会科学との対話を促進することに力を注いだ。2014年からは「全国大学院生研修キャンプ」を開始し、2026年には第13回を迎えた。これまで国内外から六十名を超える多様な分野の研究者を講師として招聘し、参加した修士・博士課程の大学院生は延べ八百名を超えている。私にとって、こうした数字の意味は単なる事業規模にあるのではない。異なる世代の研究者が一つの場で出会い、日本研究が個別の専門分野から学際的研究へ、そして台湾から国際的な対話へと展開してきたことにこそ、その意義がある。
2019年、中国文化大学学長に就任した後には、これまで蓄積してきた日本研究と東アジア研究の経験を、より制度的かつ継続的な研究基盤へと発展させるため、「日本研究センター」と「東アジア人文社会科学研究院」を設立した。同年には、中国、日本、韓国、ベトナムの十二大学と学術研究協力協定を締結し、世界各地の東アジア研究者を招聘して国際学術フォーラムを開催した。また、全国の大学生・大学院生を対象とする研修活動や国際フォーラムを継続し、2021年からは「東アジア学の越境と共生」をテーマとする全国大学院生研修キャンプを開催して、次世代の研究者育成にも力を注いできた。さらに2022年8月には、日本の渥美国際交流財団と共同で第6回アジア未来会議「アジアを創る、未来へ――みんなの問題、みんなで解決」を開催した。これによって、学術交流は研究者相互の対話にとどまらず、アジアが共有する課題と未来社会をともに考える場へと広がっていった。
一方、長年にわたって国際日本研究と東アジアの学術交流に携わってきた経験は、私自身に「日本研究」と「東アジア研究」との関係を改めて考えさせる契機ともなった。日本研究が日本だけを閉じられた研究対象として捉えるならば、その歴史や思想が形成された複雑な背景を十分に理解することは難しい。同様に、東アジア研究も、中国研究、日本研究、韓国研究などを単に並列するだけでは、地域内部に長く存在してきた人の移動、知識の伝播、思想の交渉を十分に描き出すことはできない。そのため近年では、「国境を越える文化の翻訳・解釈」と「東アジア文明史」という視座をより重視し、朱舜水、水戸徳川家の学問、水戸学研究を一つの起点として、思想がいかに国境を越え、異なる社会において再解釈され、変容し、さらに制度化されていったのかを考察している。研究上の関心も、初期の「文化交流」から、「知識移動」「思想の翻訳・変容」、さらには「文明間の相互作用」へと展開してきた。
1985年から2026年までの四十余年にわたる研究と学術交流の歩みを振り返ると、それは、一人の研究者として史料を読み、人物を研究することから始まり、国際共同研究へと広がり、さらに日本研究センター、東アジア人文社会科学研究院、国際的な学術ネットワークの構築へと展開してきた道のりであった。その過程で、私は学術交流の本当の意味とは、国際会議を何回開催したか、あるいは何件の協定を締結したかということだけではなく、継続的な対話を通して、異なる国や地域、異なる学問分野、異なる世代の研究者が互いを理解し、ともに新たな問いを生み出すことにあると考えるようになった。
とりわけ、AI、グローバル化、そして多言語・多文化が共存する今日、東アジア研究に求められる課題は、もはや単に「互いをいかに理解するか」だけではなく、「いかにして新たな知をともに創り出すか」という段階へと進みつつある。今後も本研究室は、台湾に立脚し、日本研究を重要な基盤としながら、東アジアを視野に入れ、さらに世界へとつながる研究を目指していきたい。そして、史料研究と学際的対話、伝統的な人文学と新たな知の方法との間に、新しい可能性を探っていきたいと考えている。国際共同研究、若手研究者の育成、世代を越えた学問の継承を通して、これまでの四十年における「交流」と「伝播」から、さらに「対話」「共生」、そして「共創」へと歩みを進めることが、これからの課題である。
四十年という歳月は、これまでを振り返るための時間であると同時に、新たに歩み始めるための一つの出発点でもある。学問に国境はなく、文化もまた孤立して形成されるものではない。差異のなかで互いを理解し、交流を通して自らを改めて見つめ直し、そして一人の研究者が積み重ねてきたものを、次の世代がさらに歩み続けることのできる場へとつないでいく。そのとき初めて、学術交流は持続的な意味を持つのではないだろうか。
それは、私が四十余年にわたり東アジア研究と学術交流に携わるなかで抱き続けてきた思いであり、これからも大切にしていきたい研究と教育の理念である。
現任與學歷、經歷
研究計畫
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115.8-116.7「後期水戶學」的思想連鎖對日本明治維新的影響─以小宮山楓軒、會澤正志齋、澀澤榮一為探討中心(2/3)
計畫編號: NSTC 114-2410-H-031-041- |
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114.8-115.7 「後期水戶學」的思想連鎖對日本明治維新的影響─以小宮山楓軒、會澤正志齋、澀澤榮一為探討中心(1/3)
計畫編號: NSTC 114-2410-H-031-041- |
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国際日本文化研究センター・共同研究会「比較のなかの「東アジア」の「近世」―新しい世界史の認識と構想のために―」
(2022.4-2027.3) |